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命がけの想いを永遠に・・・アニマルライツ活動家バリーホーン「イギリスが動物愛護先進国である理由」 #AnimalLiberation #HumanLiberation
イギリスは毛皮に冷たい態度をする憧れの国。
旅行者向けサイトではこんな案内まで記されています。
「イギリス旅行の服装・持ち物」
■本毛皮は、避けたほうが無難
冬には暖かい毛皮 ですが、動物愛護の風潮が強いイギリス では、本物の毛皮を身につけていると冷ややかな視線を感じることも。中には攻撃的に抗議してくる人もいるので、楽しい旅行中に不要なトラブルに巻き込まれないためにも、本毛皮 は避けた方が無難です。フェイク・ファーはファッション・アイテムとして受け入れられているので、問題ありません。
ここに至るまでに、失われた命があった事を忘れないでいよう。
イギリスのアニマルライツ活動家、バリーホーン(Barry Horme)。
苦しみ続ける動物達の為に正に命をかけた方。
イギリスから毛皮店がなくなったのは彼の功績によるものだそうです。
動物愛護先進国と言われる国々が存在している理由でもある。
「この闘いは私たちのためではない。個人的な欲求でも必要性でもない。
動物実験によって苦しみ死んでいくすべての動物たちのためである。
私たちが何かしなければ苦しみ死んでいくすべての動物たちのためである。
拷問され死んでいった動物たちの魂は正義を求めて叫んでいる。
自由に生きていく権利を求めて叫んでいる。
私たちがその正義をつくり、私たちが彼らに自由を伝達することができる。
この動物たちは私たち以外に誰も頼るものがいない。私たちは失敗はできないのだ」
「動物は死に続けている。拷問はますますひどくなっている。
これに対する我々の答えは?べジバーガーを食う?
みんなますます無関心になっている。動物を自由にする活動は見られない。
ほんの一握りの人間だけが心をくだき、行動する。行動しないと消滅してしまう。
闘わないと勝たない。勝たないとこれからずっと続く動物たちの死と苦しみはおまえたちの責任だ」
バリーホーンが命をかけて伝えた思いやりの心は今も生き続けている。
そしてその思いやりを広げていくことができるのは私たち。
彼がいなくなっても彼を生かすことができるのは私たち。
バリーホーンの事を沢山の方達に知ってもらいたい。
バリーホーン・・・永遠に・・・
情報をまとめて下さっていた、マイケルは愛のメッセンジャー様より以下転載
「動物のハンガーストライキで亡くなったバリーホーンの命日」
natsuchicoのブログさんより知りました。。。
5日は動物実験反対のストライキで亡くなったバリーホーンさんの命日でした。
こんな人がいた事を私は知りませんでした。
動画や写真や彼の記事を書かれた方のブログやジャーナリストの方の記録など転載してまとめました。
昨年のデモの様子。彼の動画も貼っておきます。
動物愛護の鏡のような方です。
でも本人が戦って亡くなってしまうのは悲しすぎます。
彼は人間の都合で実験され続ける動物たちのために自分を犠牲にしました。

http://en.wikipedia.org/wiki/Barry_Horne
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
http://catsanddogs75.blog136.fc2.com/blog-entry-244.html
(私に何の関係があるというのだ/イギリスの動物福祉)
こちらより転載
涙をしぼるバリー・ホーンの生涯を数回に分けてご紹介します。
バリー・ホーン (17 March 1952 – 5 November 2001) はイギリスの動物権利擁護者である。
世界的に彼の名が知れ渡ったのは1998年の12月、政権をとる前に労働党が実行すると約束した動物実験に関して公開尋問を要求するために行った68日間のハンガーストライキによってである。
毛皮やレザー製品を販売している店に爆発物をしかけた罪で、動物保護活動家として、イギリスで一番長い18年という刑期に服役しているときであった。
再度に渡るハンガーストライキは腎臓と視力を侵した。
49歳で肝不全で死んだときは15日間何も口にしなかった。
動物の権利団体には殉職者として見られているが、ジャーナリストや政治家からテロリストとしてみなされていた。
彼の死に対するイギリスのマスコミの反応は敵対視であった。
ホーンはリバプールで生まれた。父は郵便夫であり、母は小さいときに亡くなった。
15で学校を出たあとは道路の清掃やゴミ収集人として働くことになる。
ホーンが動物の権利に興味をもつようになったんは35歳のときである。
二度目の妻アイリーンに説得され、動物の自由に関するミーティングに出席した。
ビデオを見たあと、ベジタリアンになり、ハンティングに反対することを決めた。
ノーザンプトン・アニマル団体とともに1987年の春、動物実験を行う企業、
ユニリバーを攻撃し、毛皮を売るビーティーズにピケットをはった。
いるかのロッキー
ホーンが最初にマスコミに現れたのは1988年いるかのロッキー救出事件のときである。
ロッキーは1971年フロリダで捕獲され、20年間、ほとんどひとりぼっちでランカシャー州の小さいコンクリートのプールに閉じ込められていた。
ホーンと他の4人のメンバーは290キログラム、200ヤードの長さのロッキーを海に返そう決意した。
はしご、あみ、自分たちで作ったストレッチャー、そしてレンタカーでミニメトロを用意する。
彼らはロッキーに馴れてもらうために何度か夜こっそりしのびこみプールに入ってロッキーと一緒に遊んだ。
決行当日、道具をすべてとりそろえ遂行しようとしたが、やはり無理であった。
ロッキーを連れ去ることはできなかった。
その帰りに運悪く警察の尋問を受けた。
いるかを運ぶ大きなストレッチャーを持った彼らはまっとうな説明などありようがなかった。
5日間の裁判の後、動物窃盗の罪で500ポンドの罰金とホーンには6ヶ月の執行猶予の有罪判決がくだった。
しかし、ロッキーに自由を与えることはホーンと仲間たちの使命であり譲れないものであった。
キャンペーンは続けられる。
1989年モーカムいるかセンターにピケットをはり、旅行者たちにリーフレットを配り、地域の区役所にも陳情にいった。
そのため客の入りが悪くなり、いるかセンターのオーナーはロッキーを12万ポンドで売ることにした。
その金はサポーターたち、ボーンフリーファンデーションを含むいくつかのアニマルチャリティ団体、そしてサンデーメール紙などの強力により調達された。
そしてイギリスにとらえられているすべてのいるかたちを海を返そうという「青い海へ」というキャンペーンへひろがっていったのである。
1991年、ロッキーは80エーカーの池に移され、その数日後海へと放された。
2、3日後、野生のいるかと一緒に泳いでいるロッキーが確認された。
サザーランド大学のヒュー教授は次のようにコメントしている。
「ホーンのキャンペーンによって、いるかは個性を持った俳優であり、観光客が触れ合いたいのであれば、野生の環境の中で触れ合うべきだと皆に示したという点においてイギリスにおける動物保護団体が行った画期的な動きとなった。
この結果としてイギリスには今は捕獲されたいるかは存在していないのである」


ロッキーを拉致する前に水族館に夜半ひそかに忍び込みロッキーと遊んでいたホーンと息子
一人一人の力は小さいけれど、とよく言われますが、バリー・ホーンの成し遂げた事を見ると
ひとりの人間の力がこんなに大きいとは。。と感動します。もっと長生きしてもっと変えて欲しかった。
本日もご来英ありがとうございます。
ハーラン・インターフォーナ事件
1990年3月17日、ホーンの38回目の誕生日にケンブリッジにある、動物や臓器を研究所に供給する英国の企業、ハーラン・インターファーナに、キース・マン、ダニー・アットウッドとともに、屋根に穴をあけ動物収容ユニットに忍び込み、82匹のビーグル犬と26羽のウサギを持ち去ったのである。
同時に会社の顧客リストであるブーツ、グラクソー、ビーチャム、ハンディンドン・リサーチセンター、
そし複数の大学などの顧客リストも盗みだした。
サポーターのメンバーである獣医が実験犬の耳に施されている刺青をとりのぞき、イギリス全土に渡って里親を探し分散させた。
現場状況証拠と家宅捜査でマンとアットウッドは窃盗の罪でそれぞれ9ヶ月と18ヶ月の服役を課せられた。
友人の一人が語っている。「ゴミ袋を運ぶゴミ収集人としてのホーンの長年の経験が実に役に立った!」
エクスターカレッジ暴動
ホーンと仲間はエクスター・カレッジで開かれた動物リサーチ会議にのりこみ、
警官との乱闘の際、テーブルをひっくり返し、年代物の50本のクラレットを割り、逮捕された。
牢獄
1991年、ホーンは爆発物所持の罪で3年間投獄された。牢獄にいる間、彼の態度は強硬になった。
1993年6月に服役者のニュースレターの中で次のように記している。
「動物は死に続けている。拷問はますますひどくなっている。
これに対する我々の答えは?べジバーガーを食う?
みんなますます無関心になっている。動物を自由にする活動は見られない。
ほんの一握りの人間だけが心をくだき、行動する。行動しないと消滅してしまう。
闘わないと勝たない。勝たないとこれからずっと続く動物たちの死と苦しみはおまえたちの責任だ」
爆弾と逮捕
1994年に釈放されて以来、ホーンは一人で内密に動き始める。
当時の警察の考えは動物保護活動家は単数であると安全であると考えていたので
、見張られてはいたけれど、結構好きなことをやれた。
続く二年間、オックスフォード、ケンブリッジ、ヨーク、ハロゲート、
ロンドン、ブリストル、ニューポート、ワイト島などで夜間、爆発物の被害が続出した。
ターゲットは革製品を販売しているブーツやハルフォードであり、癌リサーチ研究所が営むチャリティショップであった。
爆弾装置を使って攻撃する動物保護家はほとんどいなかったのでホーンがやっているのではないかと推察するのは難しくなかった。
ホーンは激しい活動のコアをなす人物だと目をつけられていた。
ホーンはつかまるだろうと思っていたそうだ。彼は動物保護活動を戦争だとみなしていた。
喜んで戦争殉職者となろうとしていた。
ワイト島の爆弾騒ぎのあとスインドンにある彼の自宅で爆発物が押収されたが、起訴はされなかった。
警察は見張り続けた。そして1996年7月、ブリストルのチャリティシップ爆発。
ついにホーンが誰もいないと思った遂行した真夜中のブリティッシュホームストアの爆発の嫌疑で逮捕された。
18年禁固
1997年11月12日放火の疑いでブリストルクラウンコートで起訴されたのは2回目のハンガーストライキが終わった6週間後であった。
ブリストルの放火未遂は認めたものの、ワイト島の犯行の関与は否定した。
確実な証拠はなかったが検察側はブリストルとワイト島の爆弾装置が非常に似ているという理由でホーンの両方の犯行説を強調した。
裁判官ダーウォル・スミスはホーンをテロリストと称すも、
「私は君が人間に向けて危害を加えるつもりではないことを認める」と述べた。
1997年12月5日裁判官は18年の刑期を言い渡した。
動物権利活動家に与えられたものでは最長の刑期である。
ブリストルとワイト島の爆弾装置が似ていたことと、動物実験の製品を置いているニューポートの薬局に
1994年3百万ポンド相当の損害を与えた罪である。
さらに毛皮を販売しているいくつかのデパートに放火の疑い。
ホーンはブリストルの罪は認めたが、ワイト島の事件は否定し続けた。 続く
ウイキより抜粋ノーマンテイラー訳
ハンガーストライキ
35日間
1997年1月6日服役中のホーンは当時の保守党ジョン・メージャーに
5年以内に動物実験のサポートをやめると約束しなければハンガーストライキに入ると宣言し、
2月9日までの35日間食べ物をとらなかった。
2月9日に労働党の動物福祉科のエリオット・モーリーが
「労働党は動物実験を減らし、ゆくゆくは終止符をうつことに腐心すると言った。
世間ではこれを受けて、動物保護活動が活発に行われ、
実験用の猫を扱うオックスフォードシャーのヒルグローブ農場から猫を略奪、
ハーランブ・リーダーを襲撃、コンソート犬舎からビーグル救出、
ノーザンプトンシャーのチキン農場のトラックを破壊、ドーバー港を封鎖し、
街のマクドナルドに打撃を与える。
そしてホムステッド農場の動物実験からウサギを略奪した。
46日間
1997年8月11日に二番目のハンガーストライキが始まった。
約束した期日内に政府がすべての動物実験のライセンスを企業から剥奪することが彼の目標であった。
彼をサポートする動きが増えてくる。
1997年9月、ロンドン、サザンプトン、クリーブランドのハーグ、オハイオ、スエーデンのウメア大学など、
あちこちで集会が開かれた。
ブライトンのシャムロック農場では400人、ウィッカム研究所では300人。
労働党のオフィスの前はピケットが張られる。
ケンブリッジ州のハンディントン研究所の前は活動家がキャンプをはった。
ニューチャーチのモルモット農場は600匹解放された。
46日間食物を口にしなかったホーンが9月26日にハンガーストライキを終えた理由は
政府の大臣からホーンのサポーターへ連絡が入り、話し合いの場をもとうと提案されたからだ。
これは動物の自由保護活動に関して公的に認められた最初の話し合いであり、重要な一歩とみなされた。
68日間
ホーンの最長のハンガーストライキは1998年10月6日に始まり、68日後の12月13日に終わった。
この事は英国政治における動物実験の問題の位置づけを高くした。
ホーンのやつれた姿は世界中のニュースとなり、もし彼が死んだら、何人かの科学者を殺すという脅しも発生してきた。
ホーンからの要求も細かくなってくる。
動物実験のライセンスをすべて終止、現在のライセンスも更新なし、医学領域以外の動物実験は禁止、2002年1月6日までにすべての動物実験を廃止、ポートンダウン研究所の動物処理の速やかな閉鎖、政府動物処遇委員会の閉鎖。
このとき、ホーンは有名な声明文を発表した。
「この闘いは私たちのためではない。個人的な欲求でも必要性でもない。
動物実験によって苦しみ死んでいくすべての動物たちのためである。
私たちが何かしなければ苦しみ死んでいくすべての動物たちのためである。
拷問され死んでいった動物たちの魂は正義を求めて叫んでいる。
自由に生きていく権利を求めて叫んでいる。
私たちがその正義をつくり、私たちが彼らに自由を伝達することができる。
この動物たちは私たち以外に誰も頼るものがいない。私たちは失敗はできないのだ」
この声明文はキース・マンが筆記を引き受けた。ホーンの体が弱ってきたからである。
最初の二つのストライキが体にダメージを与えたものと思われる。
最初は刑務所にいたがストライキの10日目刑務所の病棟に移されたが、トイレや洗面台もなく、ダンボールだけで作ったテーブルと椅子のみである。
サポーターたちの要請により、普通の部屋に移されるが、43日目に死ぬのではないかと思われ、教会の牧師が呼ばれた。
そのころまでには25%の体脂肪が失われていた。
労働党は公的には脅迫めいたことに屈することを拒んだが、非公式には交渉の場をもった。
大臣のトニー・クラークは11月12日に話し合いのために刑務所を訪問した。
44日目のハンガーストライキの日であった。ミーティングの後、ホーンは声明を発表した。
何の目新しい申し出はなかった。ゆえにハンガーストライキは続行すると。
46日目、一週間嘔吐が続き脱水状態を起こしたため、ホーンはヨークの病院に移された。
52日目には強い痛みを訴え、視力も失われてきた。
サポーターたちは政府との対話を録音しようとテープを持ってきたが、ホーンは集中することができなかった。
ホーンは意識不明に落ちず、交渉をきちんとできるようにオレンジジュースと砂糖を入れた紅茶を3日間飲むことにした。
このことは後にハンガーストライキがインチキだとマスコミにかきたてられた。
そしてロンドンでは国会の前でキャンドル、プラカード、ホーンの写真を持って抗議する人がたくさん現れるのである。
国会議事堂に向かう女王の車は妨害を受け、ダウニングストリートに停めてあった車のタイヤをパンクさせたりした。
南西ロンドンのビブラ研究所やドーセットのウインドミルにあるミンク農場をデモ行進し、フィンランドでは400匹のきつねと200匹の狸を解放した。
リサーチ・ディフェンス協会のオフィスも乗り込まれた。
世界各国の英国大使館の外ではデモが行われ、政府のビルはピケットをはられた。
脅迫
ホーンの生命が危ぶまれる状態になったとき、ある動物権利団体は科学者4人の個人名をあげ、
もしホーンが死ぬようなことになったらその4人も暗殺すると発表した。
視力を研究する英国の科学者コリン・ブレークモア、
薬学の教授でありバイオサイエンスの会長であるキングスカレッジのクライブ・ページ、
リサーチ・ディフェンス協会のマーク・マットフィールド、
研究用のために猫を繁殖させているヒル・グローブ農場のオーナー、クリストファー・ブラウンであった。
このリストを受けて4人はすぐ警察の保護下にはいり、活動家の周辺にはカメラが設置された。
クライブ・ページ教授はBBCに次のように語っている。
「私の名前がリストにあることを知らされたのはイタリアにいるときであった。
すぐイギリスに戻って家族に説明した。
子供に父さんが殺されるということを説明するのは大変だった。
警察は彼の家を監視し、毎日違うルートを通るようにアドバイスされた。
子供たちも誘拐の可能性があることを学校に知らせなければならなかった」
刑務所に戻る
63日目、ホーンは片方の耳が聞こえなくなり、片目も見えなくなり、肝臓も弱ってきた。
痛みも相当なものになってきた。
66日目の昼、政府が約束を実行してくれるのなら、ホーンはストライキをやめると言った。
1998年12月10日の朝、66日目の日、ホーンは家族やサポーターたち誰にも知らされずに病院から刑務所へ戻される。
政府はこの件に関して次のように説明した。本人が病院での処置を拒否するため、病院にいる意味がないからと。
ホーンはこのときすでに幻覚症状が出始め、自分がどうしてハンガーストライキを行っているかも覚えていないようだと側近は述べている。
ハンガーストライキの終焉
動物処理委員会の会長マイケル・バナーがイギリスの動物実験に関して政府関連委員会とミーティングをすることにしたとマスコミは発表した。
これをホーンは政府の譲歩の一部と解釈し12月13日食事をとるようになったといわれている。
イギリスのマスコミはハンガーストライキの終焉に批難ごうごうであった。
オレンジジュースや紅茶を飲んで皆をだましていたと書き立てた。
生命維持のためのたった3日間の甘い飲み物を68日間の饗宴と表現した。
15日間
ホーンは回復しなかった。
もはや筋のとおった戦略もなく、サポートもなく、ただやみくもにストライキをやっていたようである。
刑務所監視員以外は彼が食べているのかどうかわからなくなってきた。
2001年10月最後のハンガーストライキに入り、それから15日後、肝不全で亡くなる。
享年49歳。延命措置は拒否していた。精神も明晰であったとされる。
マスコミは彼の死後も攻撃した。以下はガーディアン紙の報道である。
「無名で負け犬の清掃夫が、爆弾男となった。
しかしバリー・ホーンは死ぬことによって英国の動物の権利活動において最も成功した
テロリストグループの初の殉教者となったのである」
彼は故郷のノーザンプトンの森の樫の木の下にフットボールのシャツを着せられて埋葬された。
700人の参列者とともに棺は市中を練り歩いた。棺の布には次のように書かれていた。
「労働党は嘘をついた。バリーは死んだ」
"Labour lied, Barry died"
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イギリスの動物擁護ゲリラたち
セドリック・グヴェルヌール特派員(Cedric Gouverneur)
ジャーナリスト
訳・近藤功一
アメリカでは、政府当局が製薬会社とバイオテクノロジー企業に対し、動物擁護団体から襲撃のおそれがあると注意を促した。
FBIはこれら急進派のエコロジストを「エコテロリスト」と名づけた。
イギリスでは、非合法集団が動物を搾取する者に躊躇なく攻撃をかけている。
ここ4年来、まさに世界をまたにかけた闘争の焦点となっているのが、
ヨーロッパ最大の動物実験施設、ハンティンドン・ライフ・サイエンス(HLS)だ。
環境ゲリラたちは、犠牲にされている動物を解放するために、
株主、顧客、出入り業者を執拗に攻撃することで、HLSを倒産に追い込もうとしている。
[フランス語版編集部]
「合成繊維製」のスリーピースを着たロビン・ウェブ氏の身なりは申し分なく、
映画『12モンキーズ』(1)でブラッド・ピット演じる動物園のいかれた解放者というよりも、
温厚な年金生活者のようにみえる。
しかし、ノッティンガムのパブで我々を迎えてくれたこの男は、
スコットランド・ヤードやFBIのテロ対策部門から追い回されている非合法グループ、
動物解放戦線(ALF)の公式スポークスマンである。
「ALFは無敵だ。国家は思想を監禁することはできない」と、
25年前の「ある朝、食肉処理場の前を通りかかったとき」から
厳格なベジタリアン闘士(2)になった元組合活動家のウェブ氏は語る。
「動物を救うため、または動物を虐待する人の所有物に損害を与えるために、
ガラス割りや放火といった行動を起こす者は誰でも、
動物も人間も絶対に傷つけることのないかぎり、
インターネット上でALFを名乗った犯行声明を出すことができる。
ALFはその代わり、逮捕された場合には支援する」。
ALFは分散型組織であって警察の潜入は困難であり、したがって解体も難しい。
「アイルランド共和軍(IRA)も同じように独立した細胞組織によって機能している。
とはいえ、IRAには特定可能な中枢の指揮系統がある。
ALFはそれとは全く異なる。私を逮捕して私一人を黙らせても意味がない」と、
1995年に7カ月間にわたり収監されていたスポークスマンは自賛する。
組織が生まれた1976年以来、約200人の活動家が数千件の違法行為により投獄された。
ALFは幾人もの「殉教者」さえ出しており、その中には毛皮専門店への襲撃で
18年間の刑に服し、2001年11月にハンガーストライキで獄中死したバリー・ホーンがいる。
ウェブ氏の表現によると、「自身で身を守れないものの自由の名の下に」、
つまり動物のために命を落としたのだ。
動物の権利に関する問題について、イギリスは常に先を歩んできた。
世界で初めて動物保護団体と動物虐待禁止法ができたのは、
1820年代のイギリスにおいてである。
1840年創立の王立動物虐待防止協会(RSPCA)は昨年、約30万人から
8000万ポンド(約160億円)の寄付金を集めた。
この勢力にはあらゆる社会階層出身の活動家がおり、
その一部が実力行使に出たのは1960年代に遡る。
1963年にイギリス南部で狩猟妨害協会(HSA)が創設された。
「動物を救い、議会に狩猟禁止法を作らせるために、狩るものと
狩られるものとの間に介入するという活動だった」とウェブ氏は述懐する。
「1973年、ロニー・リーを中心とした小さなグループが、
ハンターの車への放火を始めた。その後、彼らは生体解剖の研究所や
毛皮専門店への活動拡大を目指し、『慈悲軍団』と自称した」。
3年後、非合法活動家たちはALFという頭文字を選んだ。
「解放戦線は、ラテンアメリカとアイルランドにも分派した。
ALF にとって暴力行動は、短期的にみて正義を得るための正当な手段たりうる。
イギリスでは、奴隷廃止運動や女性の権利を擁護する婦人参政権運動家も、
同様に非合法手段に訴えた。ALFはアルフレッドの愛称でもあり、
電話盗聴を攪乱する利点もある」
ALFとその活動家の狙いは、テロや脅迫により、
「動物の搾取」が経済的に引き合わなくなるほど警備コストを上昇させることだ。
数百人の活動家がこうした大義の下、法の外に足を踏み出す用意がある。
違法行為の意味は一目瞭然である。肉屋のガラスケースの破壊、
「熱湯で茹でられるロブスター」を救うための魚屋襲撃、
食肉処理場や毛皮専門店への放火、サーカスや動物園への嫌がらせ、
覆面のゲリラ隊によるミンク飼育場への攻撃と
ミンクの解放(この捕食動物の襲来による周辺の動物相への被害は度外視)、
生体解剖の研究所や畜産農場での略奪行為、それらの従業員に対する自宅前での嫌がらせ、
ガラス窓への投石、車の破壊、それに食肉専用冷蔵車への放火などだ。
アメリカや北ヨーロッパで、ALFは定期的にこういった種類の行為の犯行声明を出している。
これらの動物のための行動は、時として一層暴力的な形をとる。1999年10月、
武装した複数の男が、ALF活動家について調査していたテレビ局チャンネル4の
ジャーナリスト、グレアム・ホールを誘拐した。
彼の背中には、真っ赤に熱した鉄で、ALFという3文字の焼き印が押された。
2000年2月には、ハンティンドン・ライフ・サイエンス(HLS)社の
株主に爆弾を仕掛けたとの予告があり、シティで働く数千人が避難した。
2001年初めには、HLSのブライアン・キャス会長と幹部1人が覆面ゲリラに襲撃された。
また、爆弾が仕掛けられた手紙で畜産農家や6歳の女の子が負傷している。
他にも動物を苦しめる加害者や共犯者が、殺してやるとか子供を誘拐するといった脅しを受けた。
誰それは小児性愛者だという手紙を周囲の人々に送りつけられた者もいる。
残忍な動物実験
2つのエコウォリアーズ集団、動物の権利義勇軍(ARM)と正義省(JD)は
動物虐待者に対し暴力に訴えることを推奨する。
おそらく同一のエコロジストがALFやARM、あるいはJDのメンバーとして活動し、
実行した行動に応じてどこから犯行声明を出すか選んでいるのだろう。
生命の危険を恐れて、2000人近くの企業トップがイギリス政府に対し、
商業登記簿からの自宅住所の抹消を願い出て許可された。
しかし「負傷した女の子の惨事によって彼らの大義は傷つき、
過激主義者は以後、人身を標的にすることを控えるようになった」と、
動物実験のロビー組織である研究擁護協会(RDS)の専務理事で、
潜在的な標的となっているマーク・マットフィールド氏は穏やかに言う。
「彼らの行為はむしろ脅しの部類だ。彼らが人を殺したことはない」。
この闘争による死者は、ハンガーストライキで死んだエコロジストのバリー・ホーンの他は、
2人の狩猟妨害協会メンバーと、1990年代に生体家畜の輸出への
反対デモの際に車にはねられた女性だけである。
30年にわたる闘争で、動物解放運動はめざましい勝利を収めてきた。
イギリスで毛皮のコートを見つけることはほとんど不可能となった。
ここ数年でいくつかの実験用の犬や猫の飼育会社が倒産に追い込まれた。
2004年1月、ケンブリッジ大学は霊長類への残忍な実験(3)にかかわる
神経学研究所の計画を断念せざるを得なくなった。
バリー・ホーンの友人で、爆発物の所持で4年間の刑に服したメル・ブロートンは、
計画に協力する企業に対するインターネットを通じた圧力キャンペーンを組織した。
3年間で、この計画は単なる研究所の建設から要塞の建設へと変わり、
必要な費用は2400万ポンド(約48億円)から3200万ポンド(約64億円)へと跳ね上がった。
ケンブリッジ大学の理事会の手に負える金額ではなく、計画は放棄された。
研究活動の発展に気をもむブレア首相には打撃だった。
マットフィールド氏が言うには「患者にとって暗黒の日」であった。
エコロジストであるブロートンは、オックスフォードでも
同様の計画を失敗に追い込もうとしている。
「彼らは年1回のデモになら慣れてしまう。
しかし、株主や出入り業者への恒常的な圧力となれば別だ」と彼は説明する。
この3月に動物擁護団体から接触を受けた土木建設企業トラヴィス・パーキンズ・グループは、
その後すぐにオックスフォードの計画から手を引いた。
しかし環境ゲリラの最大の敵は、有刺鉄線が張り巡らされた城砦で、
彼らが4年来攻撃を集中させているHLS社だ。
彼らが強制収容所にもたとえるヨーロッパ最大の生体解剖施設は、今なお活動を続けている。
「私は自分がしていることに信念を持っている」と20年来のALFの宿敵、
ブライアン・キャス会長は我々に語った。
「動物実験の恩恵は患者にとって否定すべくもない」と主張する。
このケンブリッジシャー州のセンターでは、世界の産業のために
毎年7万匹の動物が実験台に使われている。
「85%が魚と齧歯類だ。犬や猿は全体の1%にすぎない」とHLSの幹部は詳述する。
それでも、700匹の動物がひどい扱いを受け、犠牲となっている計算だ。
1996年、ジャーナリストのゾエ・ブロートンはHLSの助手の仕事を手に入れた。
彼女の白衣の下には、小型カメラが隠されていた。1997年3月、
チャンネル4は6カ月に及ぶ調査結果に基づき、
「これでは犬の一生だ」と題したドキュメンタリーを放送した。
視聴者は、実験助手たちが同僚の無関心な視線の下で、
採血のためにビーグル犬を叩くのを目撃することになる。
選挙運動まっただ中の労働党は年金基金によるHLSへの出資を引き揚げ、
HLSの顧客企業は契約を破棄した。2人の従業員が解雇され、告訴された。
イギリス政府は同社への動物実験の許可を6カ月にわたって停止した。
経営陣は解任され、試験機関コヴァンスを率いていたキャス氏が会長に指名された。
HLSは我々の取材を受け入れた。我々が訪問したとき、
犬はきちんとした扱いを受けているようにみえ、撫でてもらおうとして走り寄ってきた。
しかし、そのうち1匹は近づくと怯えた。檻は清潔で、
互いにコミュニケーションを持てるように、2つずつ並べられていた。
ビーグル犬は、1日30分の散歩の時間を与えられている。
ただし場所は廊下である。
実験助手は配慮を見せているが、それは非常に相対的なものでしかない。
彼らは毎日、薬物を餌に混合したり、吸引用のマスクに仕込んだりしているのだから。
一部の例外を除き、ここの動物は死後剖検のために安楽死させられる。
これらの犬は、生涯にわたって野原を走り回ることはない。
「もちろん、犬たちは頼んで連れて来られたわけではない」と、
1997年のスキャンダルの後ここにやって来た研究者は言う。
「しかし、我々は動物たちを最大限に良く扱っている。
いずれにせよ、ストレスがあれば、試験の結果がゆがめられてしまう。
ここでは誰も犬をモルモットのように使おうなどと思わない。
しかし他に選択肢がないのだ」と彼は断言する。
実力行使の標的
「我々は犬の代わりにミニ豚の利用を進めている。
しかし1960年代から研究用に使ってきたビーグル犬についての方が、
多くのデータを保有している」ともう一人の研究者が説明する。
「今のところ、豚の利用を進めることは広報的見地からは好ましいが、
科学的見地からは好ましくない」とある幹部が付け加える。
キャス会長は、槍玉に挙げられている苦痛は相対的なものにすぎないと言う。
「毎年この国で300万の動物が実験用に殺されているが、
食用に殺されている動物は7億5000万にのぼる。
こうしたことはすべて文化的なものが密接にかかわっている。
朝鮮半島では犬を食べるし、イギリスでは孤児の福祉よりも年老いた競走馬
の福祉の方に多くの寄付が集まっている。
それに、実験の条件はここの方がフランスよりずっと良い」。
化粧品産業の影響力が強いフランスとは異なり、イギリスでは政府が
1997年以来、化粧品開発のための動物実験を禁止している。
しかし、HLSで特に残忍な実験が続いていたことが明るみに出た。
例えばフロンガスが禁止されてから15年後の2003年に、
このガスを使った犬の実験が行われていた(4)。
また複数の情報から、日本企業の依頼による骨のための医薬品の試験として、
37匹の犬が脚を折られたことも確認されている。
HLSは、医薬品や工業製品を市場に出す前に、
人体と環境に好ましくない影響を予防するために、
2種類の哺乳類(大抵はねずみと犬)で試験することが、
法律によって義務づけられていると主張する。
現実はより複雑である。
イギリス内務省の情報筋は、サリドマイドの惨事(5)を受けて
1968年に生まれた薬事法を引き合いに出した。
「規定では、信頼できるデータが他の方法で収集できるならば、
動物への試験を強制していない。
だが動物への試験が、人間にとって効果的で安全な製品を
発売するためには必要な段階だという強力な推定が存在する」。
それは強力な推定、もっともらしさにすぎず、科学的な確証ではない。
生体解剖反対論者は、人間に副作用が出ても動物には全くない薬剤もあれば、
その逆パターンの薬剤もあるという例を示してみせる(6)。
ロバート・コンブス氏は、医学的動物実験代替基金(FRAME)の理事として、
中期的に動物実験を廃止していくために代替案を研究するグループを率いている。
その資金は動物擁護団体だけでなく製薬会社からも受け取っているため、
FRAMEはALFから「正当な標的」とみなされている。
コンブス教授によると、動物実験が必要という考えは、
「科学的保守主義」によるところが大きい。
「基礎研究では、代替案には関心が向けられない。
情報技術を使ったシミューレーションには大きな可能性があるのに、開発は進んでいないのだ」。
動物実験の必要というのは、主に経済的なものだ。
「日本やアメリカでは動物実験が義務となっている」と彼は説明する。
内務省の情報筋の発言も、「企業は商品を複数の経済圏で販売しようとし、
それに応じた試験を実施する」と、これを裏づける。
コンブス教授は「動物に対する試験が簡単に実施できるのに対し、
資金の集まらない代替案の優先順位は低い」と付け加える。
製薬産業は、生体解剖の「悲しき必要性」を謳うが、
代替案に投資することには非常に消極的だ。
HLSはFRAMEに名目的な金額を出資して、このことを巧みにメディアに売り込んでいる。
HLSに試験を委託する顧客企業は、収益の論理で動く。
人間の健康や環境に引き起こされる予想外の事態に対しては、
法律を守ることで予防線を張りつつ、最も低いコストで
世界市場に製品を投入するということだ。
生体解剖に反対する動物擁護ゲリラにとって、HLSは打倒すべき象徴となった。
団体組織「ハンティンドンの動物虐待ストップ(SHAC)」は、
ウェブサイトでHLSと協力関係にある企業名を公表し、メールやファックスを送ったり、
電話をかけたり、切り刻まれた犬の写真を掲げて
オフィスの前で定期的にピケを張ったり、といった行動を呼びかける(7)。
その次の段階は、HLSの幹部の自宅前での夜半のデモや、
時には財産や人身への暴力行為である。というのも、
職員の住所もネット上に流れているからだ。
SHACの責任者グレッグ・エイヴリー氏が暴力行為によって
何度も有罪判決を受けているのは事実だが、SHACはALFと異なり、
公式には「非合法活動を奨励も助長もしていない」という。
オックスフォード・ストリートで会ったエイヴリー氏は、
請願書に署名を集め、SHACへの寄付金を募っているところだった。
彼が言うには、「ヒルグローヴ(1999年に倒産に追い込まれた実験用の猫の飼育会社
)の閉鎖によって、どのように株主を狙えば目標に到達できるかが明らかになった」。
バークレイズ、HSBC、オラクル、メリルリンチ等々、HLSの株主は嫌がらせを受け、
従業員の安全を懸念して、一社また一社と出資を引き揚げていった。
硬直化した2大政党制の国で
2001年1月、同様の圧力を受けた王立スコットランド銀行も手を引いた。
HLSはアメリカの投資会社、スティーヴンス・グループのおかげで
危ういところで倒産を免れた。2002年、HLSはSHACの追撃を逃れるためにシティを離れ、
株主の匿名が認められるニューヨークのナスダックに上場した。
しかし、今度は監査会社のデロイト&トウシュが狙われ、協力を見合わせざるを得なくなった。
それから少しして、HLSの保険業者マーシュ&マクレランも同じ運命をたどり、
イギリス政府が直接HLSの保険を引き受けなければならなくなった。
日本の顧客企業も、ロンドン、東京、スウェーデン、スイス、
イタリアなどで嫌がらせを受けている。
2003年9月25日の夜、カリフォルニアで「革命細胞」なるグループから
犯行声明が出された爆破テロによって、HLSの顧客である
日本企業の事務所が大きな被害にあった。
イギリスのセンズベリー科学大臣は製薬産業をなだめるために日本に飛び立った。
シティは、研究部門を脅かす「投資テロ」だと言って、
SHACに都合の悪い情報を手に入れるために報奨金の提供を計画している。
フィナンシャル・タイムズ紙は株式市場を応援して、「カール・マルクス、
ドイツ赤軍派、赤い旅団が失敗した企てを、一握りの活動家がうまくやってのけた」と書いた。
キャス会長によると、HLSは2003年に約10万ポンド(約2000万円)を支払って、
デモ隊が会社の事務所や職員の自宅に近づくことを禁止する裁判所命令を勝ち取った。
顧客企業も同じようにした。
SHACはこの障害を回避して、裁判所への差し止め請求に必要な
2万ポンド(約400万円)を支払う力のない「二次的な標的」に狙いを定めるようになり、
暴力行動の数は倍に増えた(2004年の初めの3カ月で46件)。
4カ月のうちに、22の企業がすでにHLSとの関係を断ち切った。
いくつかは、幹部や顧客を送迎するタクシー会社のように、HLSとは僅かな関係しかない。
マットフィールド氏は、標的にされた400人の所在を調べ、犠牲者の会を作ろうとしている。
「何人かは神経衰弱に苦しんでいる。
家族は怯えきっている」。ハンティンドン選出の保守党議員、ジョナサン・ジャノグリー氏は、
フーリガンの取り締まりをモデルとして、取り締まりを強化することを求めている。
「このテロリストたちは、民主主義の原則を攻撃しているのだ」と断言する。
動物解放運動にとって、自分たちの実践していることは、
代議制民主主義の惰性を前にした「参加型民主主義」と呼びうるものである。
「1997年の選挙に勝つ前、ニュー・レイバー(新生労働党)
は動物擁護論者に対して数多くの公約をした。
彼らはそれを破ったのだ」と、ケンブリッジ大学の研究所計画を
挫折に追い込んだメル・ブロートンは述懐する。
「バリー・ホーンはブレアに自身の綱領を思い起こさせるために、
ハンガーストライキをして死んだ。
政治家は、行動を起こすには少数の実力者に密着しすぎている。
民衆の直接行動こそが、彼らに政策の実施を迫ることになるのだ」
産業グループによる圧力を前にして、動物擁護論者の行動は、
政策決定を左右するようになる。マットフィールド氏も
「彼らの合法的なデモ行動によって、議論が活発になり、
この国が1986年に世界で最も厳しい動物実験に関する法律を制定することになった」
と認めている。
同様の流れの中で、イギリス政府はエコウォリアーズに対する取り締まりを強化する一方、
動物実験の代替案に関する大規模な国立研究センターを創設することを約束している。
新自由主義化したブレアの労働党と、サッチャーの流れを汲む
ウルトラ右派という限られた選択肢しかない硬直化した2大政党制の国で、
世論の一部は自分たちの代表がいないことに苦慮している。
こうした意味において、動物の擁護を唱えるエコロジストの
(ただし暴力によらない)行動は、イギリスの議会民主主義を動かしていく可能性、
そして、崇高な大義を擁護する可能性を示している。
(1) クリス・マルケルの短編映画『ラ・ジュテ』に着想を得た
テリー・ギリアムの1995年の作品。主演はブルース・ウィリス、ブラッド・ピット。
(2) 400万人のイギリス人がベジタリアン。そのうち肉、卵、牛乳、
バター、チーズ、皮、羊毛といった動物から取れる製品を一切消費しない
厳格なベジタリアンが約25万人。
(3) 猿の頭蓋を意識のあるまま切り取り、電極を脳に差し込み、
ニューロンの働きを研究する。1日6時間、週5日間行う。
この実験の支持者は人間と猿の類似性を引き合いに出し、
反対者はその類似性こそが、倫理的に容認しがたい苦痛をもたらすのだと説明する。
(4) The Observer, 20 April 2003.
(5) この薬は1957年の医療上の惨事の原因となった。
妊婦に処方されたサリドマイドによって、
数千の腕のない子供が生まれた。
このことは生体解剖反対論者にとって、動物実験では何も明らかにできなかった
ことの証明である。反対にその支持者は、動物実験の件数が不十分だと残念がる。
(6) 生体解剖の代替案については、http://www.experimentation-animale.org
を参照。ヒト細胞の培養や情報技術を使ったシミュレーションなど。
(7) http://www.shac.net/
参考
動物解放戦線(ALF)の公式サイト、英語(http://www.animalliberation.net)
動物の条件に関するネットワーク=搾取に反対する活動家グループ(RAGE)のサイト、
仏語(http://www.reseaulibre.net/rage/)
動物擁護運動のためのサイト、仏語(http://animauzine.net)
人間と動物の権利に関する活動家とシンパのためのサイト、仏語(http://www.stopvivisection.info)
動物にかかわる産業や娯楽に関する情報サイト、仏語(http://www.veganimal.info)
ネット上の団体から発信された情報のサイト、主に英語(http://an-group.org)
~転載終了~
旅行者向けサイトではこんな案内まで記されています。
「イギリス旅行の服装・持ち物」
■本毛皮は、避けたほうが無難
冬には暖かい毛皮 ですが、動物愛護の風潮が強いイギリス では、本物の毛皮を身につけていると冷ややかな視線を感じることも。中には攻撃的に抗議してくる人もいるので、楽しい旅行中に不要なトラブルに巻き込まれないためにも、本毛皮 は避けた方が無難です。フェイク・ファーはファッション・アイテムとして受け入れられているので、問題ありません。
ここに至るまでに、失われた命があった事を忘れないでいよう。
イギリスのアニマルライツ活動家、バリーホーン(Barry Horme)。
苦しみ続ける動物達の為に正に命をかけた方。
イギリスから毛皮店がなくなったのは彼の功績によるものだそうです。
動物愛護先進国と言われる国々が存在している理由でもある。
「この闘いは私たちのためではない。個人的な欲求でも必要性でもない。
動物実験によって苦しみ死んでいくすべての動物たちのためである。
私たちが何かしなければ苦しみ死んでいくすべての動物たちのためである。
拷問され死んでいった動物たちの魂は正義を求めて叫んでいる。
自由に生きていく権利を求めて叫んでいる。
私たちがその正義をつくり、私たちが彼らに自由を伝達することができる。
この動物たちは私たち以外に誰も頼るものがいない。私たちは失敗はできないのだ」
「動物は死に続けている。拷問はますますひどくなっている。
これに対する我々の答えは?べジバーガーを食う?
みんなますます無関心になっている。動物を自由にする活動は見られない。
ほんの一握りの人間だけが心をくだき、行動する。行動しないと消滅してしまう。
闘わないと勝たない。勝たないとこれからずっと続く動物たちの死と苦しみはおまえたちの責任だ」
バリーホーンが命をかけて伝えた思いやりの心は今も生き続けている。
そしてその思いやりを広げていくことができるのは私たち。
彼がいなくなっても彼を生かすことができるのは私たち。
バリーホーンの事を沢山の方達に知ってもらいたい。
バリーホーン・・・永遠に・・・
情報をまとめて下さっていた、マイケルは愛のメッセンジャー様より以下転載
「動物のハンガーストライキで亡くなったバリーホーンの命日」
natsuchicoのブログさんより知りました。。。
5日は動物実験反対のストライキで亡くなったバリーホーンさんの命日でした。
こんな人がいた事を私は知りませんでした。
動画や写真や彼の記事を書かれた方のブログやジャーナリストの方の記録など転載してまとめました。
昨年のデモの様子。彼の動画も貼っておきます。
動物愛護の鏡のような方です。
でも本人が戦って亡くなってしまうのは悲しすぎます。
彼は人間の都合で実験され続ける動物たちのために自分を犠牲にしました。

http://en.wikipedia.org/wiki/Barry_Horne
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
http://catsanddogs75.blog136.fc2.com/blog-entry-244.html
(私に何の関係があるというのだ/イギリスの動物福祉)
こちらより転載
涙をしぼるバリー・ホーンの生涯を数回に分けてご紹介します。
バリー・ホーン (17 March 1952 – 5 November 2001) はイギリスの動物権利擁護者である。
世界的に彼の名が知れ渡ったのは1998年の12月、政権をとる前に労働党が実行すると約束した動物実験に関して公開尋問を要求するために行った68日間のハンガーストライキによってである。
毛皮やレザー製品を販売している店に爆発物をしかけた罪で、動物保護活動家として、イギリスで一番長い18年という刑期に服役しているときであった。
再度に渡るハンガーストライキは腎臓と視力を侵した。
49歳で肝不全で死んだときは15日間何も口にしなかった。
動物の権利団体には殉職者として見られているが、ジャーナリストや政治家からテロリストとしてみなされていた。
彼の死に対するイギリスのマスコミの反応は敵対視であった。
ホーンはリバプールで生まれた。父は郵便夫であり、母は小さいときに亡くなった。
15で学校を出たあとは道路の清掃やゴミ収集人として働くことになる。
ホーンが動物の権利に興味をもつようになったんは35歳のときである。
二度目の妻アイリーンに説得され、動物の自由に関するミーティングに出席した。
ビデオを見たあと、ベジタリアンになり、ハンティングに反対することを決めた。
ノーザンプトン・アニマル団体とともに1987年の春、動物実験を行う企業、
ユニリバーを攻撃し、毛皮を売るビーティーズにピケットをはった。
いるかのロッキー
ホーンが最初にマスコミに現れたのは1988年いるかのロッキー救出事件のときである。
ロッキーは1971年フロリダで捕獲され、20年間、ほとんどひとりぼっちでランカシャー州の小さいコンクリートのプールに閉じ込められていた。
ホーンと他の4人のメンバーは290キログラム、200ヤードの長さのロッキーを海に返そう決意した。
はしご、あみ、自分たちで作ったストレッチャー、そしてレンタカーでミニメトロを用意する。
彼らはロッキーに馴れてもらうために何度か夜こっそりしのびこみプールに入ってロッキーと一緒に遊んだ。
決行当日、道具をすべてとりそろえ遂行しようとしたが、やはり無理であった。
ロッキーを連れ去ることはできなかった。
その帰りに運悪く警察の尋問を受けた。
いるかを運ぶ大きなストレッチャーを持った彼らはまっとうな説明などありようがなかった。
5日間の裁判の後、動物窃盗の罪で500ポンドの罰金とホーンには6ヶ月の執行猶予の有罪判決がくだった。
しかし、ロッキーに自由を与えることはホーンと仲間たちの使命であり譲れないものであった。
キャンペーンは続けられる。
1989年モーカムいるかセンターにピケットをはり、旅行者たちにリーフレットを配り、地域の区役所にも陳情にいった。
そのため客の入りが悪くなり、いるかセンターのオーナーはロッキーを12万ポンドで売ることにした。
その金はサポーターたち、ボーンフリーファンデーションを含むいくつかのアニマルチャリティ団体、そしてサンデーメール紙などの強力により調達された。
そしてイギリスにとらえられているすべてのいるかたちを海を返そうという「青い海へ」というキャンペーンへひろがっていったのである。
1991年、ロッキーは80エーカーの池に移され、その数日後海へと放された。
2、3日後、野生のいるかと一緒に泳いでいるロッキーが確認された。
サザーランド大学のヒュー教授は次のようにコメントしている。
「ホーンのキャンペーンによって、いるかは個性を持った俳優であり、観光客が触れ合いたいのであれば、野生の環境の中で触れ合うべきだと皆に示したという点においてイギリスにおける動物保護団体が行った画期的な動きとなった。
この結果としてイギリスには今は捕獲されたいるかは存在していないのである」


ロッキーを拉致する前に水族館に夜半ひそかに忍び込みロッキーと遊んでいたホーンと息子
一人一人の力は小さいけれど、とよく言われますが、バリー・ホーンの成し遂げた事を見ると
ひとりの人間の力がこんなに大きいとは。。と感動します。もっと長生きしてもっと変えて欲しかった。
本日もご来英ありがとうございます。
ハーラン・インターフォーナ事件
1990年3月17日、ホーンの38回目の誕生日にケンブリッジにある、動物や臓器を研究所に供給する英国の企業、ハーラン・インターファーナに、キース・マン、ダニー・アットウッドとともに、屋根に穴をあけ動物収容ユニットに忍び込み、82匹のビーグル犬と26羽のウサギを持ち去ったのである。
同時に会社の顧客リストであるブーツ、グラクソー、ビーチャム、ハンディンドン・リサーチセンター、
そし複数の大学などの顧客リストも盗みだした。
サポーターのメンバーである獣医が実験犬の耳に施されている刺青をとりのぞき、イギリス全土に渡って里親を探し分散させた。
現場状況証拠と家宅捜査でマンとアットウッドは窃盗の罪でそれぞれ9ヶ月と18ヶ月の服役を課せられた。
友人の一人が語っている。「ゴミ袋を運ぶゴミ収集人としてのホーンの長年の経験が実に役に立った!」
エクスターカレッジ暴動
ホーンと仲間はエクスター・カレッジで開かれた動物リサーチ会議にのりこみ、
警官との乱闘の際、テーブルをひっくり返し、年代物の50本のクラレットを割り、逮捕された。
牢獄
1991年、ホーンは爆発物所持の罪で3年間投獄された。牢獄にいる間、彼の態度は強硬になった。
1993年6月に服役者のニュースレターの中で次のように記している。
「動物は死に続けている。拷問はますますひどくなっている。
これに対する我々の答えは?べジバーガーを食う?
みんなますます無関心になっている。動物を自由にする活動は見られない。
ほんの一握りの人間だけが心をくだき、行動する。行動しないと消滅してしまう。
闘わないと勝たない。勝たないとこれからずっと続く動物たちの死と苦しみはおまえたちの責任だ」
爆弾と逮捕
1994年に釈放されて以来、ホーンは一人で内密に動き始める。
当時の警察の考えは動物保護活動家は単数であると安全であると考えていたので
、見張られてはいたけれど、結構好きなことをやれた。
続く二年間、オックスフォード、ケンブリッジ、ヨーク、ハロゲート、
ロンドン、ブリストル、ニューポート、ワイト島などで夜間、爆発物の被害が続出した。
ターゲットは革製品を販売しているブーツやハルフォードであり、癌リサーチ研究所が営むチャリティショップであった。
爆弾装置を使って攻撃する動物保護家はほとんどいなかったのでホーンがやっているのではないかと推察するのは難しくなかった。
ホーンは激しい活動のコアをなす人物だと目をつけられていた。
ホーンはつかまるだろうと思っていたそうだ。彼は動物保護活動を戦争だとみなしていた。
喜んで戦争殉職者となろうとしていた。
ワイト島の爆弾騒ぎのあとスインドンにある彼の自宅で爆発物が押収されたが、起訴はされなかった。
警察は見張り続けた。そして1996年7月、ブリストルのチャリティシップ爆発。
ついにホーンが誰もいないと思った遂行した真夜中のブリティッシュホームストアの爆発の嫌疑で逮捕された。
18年禁固
1997年11月12日放火の疑いでブリストルクラウンコートで起訴されたのは2回目のハンガーストライキが終わった6週間後であった。
ブリストルの放火未遂は認めたものの、ワイト島の犯行の関与は否定した。
確実な証拠はなかったが検察側はブリストルとワイト島の爆弾装置が非常に似ているという理由でホーンの両方の犯行説を強調した。
裁判官ダーウォル・スミスはホーンをテロリストと称すも、
「私は君が人間に向けて危害を加えるつもりではないことを認める」と述べた。
1997年12月5日裁判官は18年の刑期を言い渡した。
動物権利活動家に与えられたものでは最長の刑期である。
ブリストルとワイト島の爆弾装置が似ていたことと、動物実験の製品を置いているニューポートの薬局に
1994年3百万ポンド相当の損害を与えた罪である。
さらに毛皮を販売しているいくつかのデパートに放火の疑い。
ホーンはブリストルの罪は認めたが、ワイト島の事件は否定し続けた。 続く
ウイキより抜粋ノーマンテイラー訳
ハンガーストライキ
35日間
1997年1月6日服役中のホーンは当時の保守党ジョン・メージャーに
5年以内に動物実験のサポートをやめると約束しなければハンガーストライキに入ると宣言し、
2月9日までの35日間食べ物をとらなかった。
2月9日に労働党の動物福祉科のエリオット・モーリーが
「労働党は動物実験を減らし、ゆくゆくは終止符をうつことに腐心すると言った。
世間ではこれを受けて、動物保護活動が活発に行われ、
実験用の猫を扱うオックスフォードシャーのヒルグローブ農場から猫を略奪、
ハーランブ・リーダーを襲撃、コンソート犬舎からビーグル救出、
ノーザンプトンシャーのチキン農場のトラックを破壊、ドーバー港を封鎖し、
街のマクドナルドに打撃を与える。
そしてホムステッド農場の動物実験からウサギを略奪した。
46日間
1997年8月11日に二番目のハンガーストライキが始まった。
約束した期日内に政府がすべての動物実験のライセンスを企業から剥奪することが彼の目標であった。
彼をサポートする動きが増えてくる。
1997年9月、ロンドン、サザンプトン、クリーブランドのハーグ、オハイオ、スエーデンのウメア大学など、
あちこちで集会が開かれた。
ブライトンのシャムロック農場では400人、ウィッカム研究所では300人。
労働党のオフィスの前はピケットが張られる。
ケンブリッジ州のハンディントン研究所の前は活動家がキャンプをはった。
ニューチャーチのモルモット農場は600匹解放された。
46日間食物を口にしなかったホーンが9月26日にハンガーストライキを終えた理由は
政府の大臣からホーンのサポーターへ連絡が入り、話し合いの場をもとうと提案されたからだ。
これは動物の自由保護活動に関して公的に認められた最初の話し合いであり、重要な一歩とみなされた。
68日間
ホーンの最長のハンガーストライキは1998年10月6日に始まり、68日後の12月13日に終わった。
この事は英国政治における動物実験の問題の位置づけを高くした。
ホーンのやつれた姿は世界中のニュースとなり、もし彼が死んだら、何人かの科学者を殺すという脅しも発生してきた。
ホーンからの要求も細かくなってくる。
動物実験のライセンスをすべて終止、現在のライセンスも更新なし、医学領域以外の動物実験は禁止、2002年1月6日までにすべての動物実験を廃止、ポートンダウン研究所の動物処理の速やかな閉鎖、政府動物処遇委員会の閉鎖。
このとき、ホーンは有名な声明文を発表した。
「この闘いは私たちのためではない。個人的な欲求でも必要性でもない。
動物実験によって苦しみ死んでいくすべての動物たちのためである。
私たちが何かしなければ苦しみ死んでいくすべての動物たちのためである。
拷問され死んでいった動物たちの魂は正義を求めて叫んでいる。
自由に生きていく権利を求めて叫んでいる。
私たちがその正義をつくり、私たちが彼らに自由を伝達することができる。
この動物たちは私たち以外に誰も頼るものがいない。私たちは失敗はできないのだ」
この声明文はキース・マンが筆記を引き受けた。ホーンの体が弱ってきたからである。
最初の二つのストライキが体にダメージを与えたものと思われる。
最初は刑務所にいたがストライキの10日目刑務所の病棟に移されたが、トイレや洗面台もなく、ダンボールだけで作ったテーブルと椅子のみである。
サポーターたちの要請により、普通の部屋に移されるが、43日目に死ぬのではないかと思われ、教会の牧師が呼ばれた。
そのころまでには25%の体脂肪が失われていた。
労働党は公的には脅迫めいたことに屈することを拒んだが、非公式には交渉の場をもった。
大臣のトニー・クラークは11月12日に話し合いのために刑務所を訪問した。
44日目のハンガーストライキの日であった。ミーティングの後、ホーンは声明を発表した。
何の目新しい申し出はなかった。ゆえにハンガーストライキは続行すると。
46日目、一週間嘔吐が続き脱水状態を起こしたため、ホーンはヨークの病院に移された。
52日目には強い痛みを訴え、視力も失われてきた。
サポーターたちは政府との対話を録音しようとテープを持ってきたが、ホーンは集中することができなかった。
ホーンは意識不明に落ちず、交渉をきちんとできるようにオレンジジュースと砂糖を入れた紅茶を3日間飲むことにした。
このことは後にハンガーストライキがインチキだとマスコミにかきたてられた。
そしてロンドンでは国会の前でキャンドル、プラカード、ホーンの写真を持って抗議する人がたくさん現れるのである。
国会議事堂に向かう女王の車は妨害を受け、ダウニングストリートに停めてあった車のタイヤをパンクさせたりした。
南西ロンドンのビブラ研究所やドーセットのウインドミルにあるミンク農場をデモ行進し、フィンランドでは400匹のきつねと200匹の狸を解放した。
リサーチ・ディフェンス協会のオフィスも乗り込まれた。
世界各国の英国大使館の外ではデモが行われ、政府のビルはピケットをはられた。
脅迫
ホーンの生命が危ぶまれる状態になったとき、ある動物権利団体は科学者4人の個人名をあげ、
もしホーンが死ぬようなことになったらその4人も暗殺すると発表した。
視力を研究する英国の科学者コリン・ブレークモア、
薬学の教授でありバイオサイエンスの会長であるキングスカレッジのクライブ・ページ、
リサーチ・ディフェンス協会のマーク・マットフィールド、
研究用のために猫を繁殖させているヒル・グローブ農場のオーナー、クリストファー・ブラウンであった。
このリストを受けて4人はすぐ警察の保護下にはいり、活動家の周辺にはカメラが設置された。
クライブ・ページ教授はBBCに次のように語っている。
「私の名前がリストにあることを知らされたのはイタリアにいるときであった。
すぐイギリスに戻って家族に説明した。
子供に父さんが殺されるということを説明するのは大変だった。
警察は彼の家を監視し、毎日違うルートを通るようにアドバイスされた。
子供たちも誘拐の可能性があることを学校に知らせなければならなかった」
刑務所に戻る
63日目、ホーンは片方の耳が聞こえなくなり、片目も見えなくなり、肝臓も弱ってきた。
痛みも相当なものになってきた。
66日目の昼、政府が約束を実行してくれるのなら、ホーンはストライキをやめると言った。
1998年12月10日の朝、66日目の日、ホーンは家族やサポーターたち誰にも知らされずに病院から刑務所へ戻される。
政府はこの件に関して次のように説明した。本人が病院での処置を拒否するため、病院にいる意味がないからと。
ホーンはこのときすでに幻覚症状が出始め、自分がどうしてハンガーストライキを行っているかも覚えていないようだと側近は述べている。
ハンガーストライキの終焉
動物処理委員会の会長マイケル・バナーがイギリスの動物実験に関して政府関連委員会とミーティングをすることにしたとマスコミは発表した。
これをホーンは政府の譲歩の一部と解釈し12月13日食事をとるようになったといわれている。
イギリスのマスコミはハンガーストライキの終焉に批難ごうごうであった。
オレンジジュースや紅茶を飲んで皆をだましていたと書き立てた。
生命維持のためのたった3日間の甘い飲み物を68日間の饗宴と表現した。
15日間
ホーンは回復しなかった。
もはや筋のとおった戦略もなく、サポートもなく、ただやみくもにストライキをやっていたようである。
刑務所監視員以外は彼が食べているのかどうかわからなくなってきた。
2001年10月最後のハンガーストライキに入り、それから15日後、肝不全で亡くなる。
享年49歳。延命措置は拒否していた。精神も明晰であったとされる。
マスコミは彼の死後も攻撃した。以下はガーディアン紙の報道である。
「無名で負け犬の清掃夫が、爆弾男となった。
しかしバリー・ホーンは死ぬことによって英国の動物の権利活動において最も成功した
テロリストグループの初の殉教者となったのである」
彼は故郷のノーザンプトンの森の樫の木の下にフットボールのシャツを着せられて埋葬された。
700人の参列者とともに棺は市中を練り歩いた。棺の布には次のように書かれていた。
「労働党は嘘をついた。バリーは死んだ」
"Labour lied, Barry died"
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イギリスの動物擁護ゲリラたち
セドリック・グヴェルヌール特派員(Cedric Gouverneur)
ジャーナリスト
訳・近藤功一
アメリカでは、政府当局が製薬会社とバイオテクノロジー企業に対し、動物擁護団体から襲撃のおそれがあると注意を促した。
FBIはこれら急進派のエコロジストを「エコテロリスト」と名づけた。
イギリスでは、非合法集団が動物を搾取する者に躊躇なく攻撃をかけている。
ここ4年来、まさに世界をまたにかけた闘争の焦点となっているのが、
ヨーロッパ最大の動物実験施設、ハンティンドン・ライフ・サイエンス(HLS)だ。
環境ゲリラたちは、犠牲にされている動物を解放するために、
株主、顧客、出入り業者を執拗に攻撃することで、HLSを倒産に追い込もうとしている。
[フランス語版編集部]
「合成繊維製」のスリーピースを着たロビン・ウェブ氏の身なりは申し分なく、
映画『12モンキーズ』(1)でブラッド・ピット演じる動物園のいかれた解放者というよりも、
温厚な年金生活者のようにみえる。
しかし、ノッティンガムのパブで我々を迎えてくれたこの男は、
スコットランド・ヤードやFBIのテロ対策部門から追い回されている非合法グループ、
動物解放戦線(ALF)の公式スポークスマンである。
「ALFは無敵だ。国家は思想を監禁することはできない」と、
25年前の「ある朝、食肉処理場の前を通りかかったとき」から
厳格なベジタリアン闘士(2)になった元組合活動家のウェブ氏は語る。
「動物を救うため、または動物を虐待する人の所有物に損害を与えるために、
ガラス割りや放火といった行動を起こす者は誰でも、
動物も人間も絶対に傷つけることのないかぎり、
インターネット上でALFを名乗った犯行声明を出すことができる。
ALFはその代わり、逮捕された場合には支援する」。
ALFは分散型組織であって警察の潜入は困難であり、したがって解体も難しい。
「アイルランド共和軍(IRA)も同じように独立した細胞組織によって機能している。
とはいえ、IRAには特定可能な中枢の指揮系統がある。
ALFはそれとは全く異なる。私を逮捕して私一人を黙らせても意味がない」と、
1995年に7カ月間にわたり収監されていたスポークスマンは自賛する。
組織が生まれた1976年以来、約200人の活動家が数千件の違法行為により投獄された。
ALFは幾人もの「殉教者」さえ出しており、その中には毛皮専門店への襲撃で
18年間の刑に服し、2001年11月にハンガーストライキで獄中死したバリー・ホーンがいる。
ウェブ氏の表現によると、「自身で身を守れないものの自由の名の下に」、
つまり動物のために命を落としたのだ。
動物の権利に関する問題について、イギリスは常に先を歩んできた。
世界で初めて動物保護団体と動物虐待禁止法ができたのは、
1820年代のイギリスにおいてである。
1840年創立の王立動物虐待防止協会(RSPCA)は昨年、約30万人から
8000万ポンド(約160億円)の寄付金を集めた。
この勢力にはあらゆる社会階層出身の活動家がおり、
その一部が実力行使に出たのは1960年代に遡る。
1963年にイギリス南部で狩猟妨害協会(HSA)が創設された。
「動物を救い、議会に狩猟禁止法を作らせるために、狩るものと
狩られるものとの間に介入するという活動だった」とウェブ氏は述懐する。
「1973年、ロニー・リーを中心とした小さなグループが、
ハンターの車への放火を始めた。その後、彼らは生体解剖の研究所や
毛皮専門店への活動拡大を目指し、『慈悲軍団』と自称した」。
3年後、非合法活動家たちはALFという頭文字を選んだ。
「解放戦線は、ラテンアメリカとアイルランドにも分派した。
ALF にとって暴力行動は、短期的にみて正義を得るための正当な手段たりうる。
イギリスでは、奴隷廃止運動や女性の権利を擁護する婦人参政権運動家も、
同様に非合法手段に訴えた。ALFはアルフレッドの愛称でもあり、
電話盗聴を攪乱する利点もある」
ALFとその活動家の狙いは、テロや脅迫により、
「動物の搾取」が経済的に引き合わなくなるほど警備コストを上昇させることだ。
数百人の活動家がこうした大義の下、法の外に足を踏み出す用意がある。
違法行為の意味は一目瞭然である。肉屋のガラスケースの破壊、
「熱湯で茹でられるロブスター」を救うための魚屋襲撃、
食肉処理場や毛皮専門店への放火、サーカスや動物園への嫌がらせ、
覆面のゲリラ隊によるミンク飼育場への攻撃と
ミンクの解放(この捕食動物の襲来による周辺の動物相への被害は度外視)、
生体解剖の研究所や畜産農場での略奪行為、それらの従業員に対する自宅前での嫌がらせ、
ガラス窓への投石、車の破壊、それに食肉専用冷蔵車への放火などだ。
アメリカや北ヨーロッパで、ALFは定期的にこういった種類の行為の犯行声明を出している。
これらの動物のための行動は、時として一層暴力的な形をとる。1999年10月、
武装した複数の男が、ALF活動家について調査していたテレビ局チャンネル4の
ジャーナリスト、グレアム・ホールを誘拐した。
彼の背中には、真っ赤に熱した鉄で、ALFという3文字の焼き印が押された。
2000年2月には、ハンティンドン・ライフ・サイエンス(HLS)社の
株主に爆弾を仕掛けたとの予告があり、シティで働く数千人が避難した。
2001年初めには、HLSのブライアン・キャス会長と幹部1人が覆面ゲリラに襲撃された。
また、爆弾が仕掛けられた手紙で畜産農家や6歳の女の子が負傷している。
他にも動物を苦しめる加害者や共犯者が、殺してやるとか子供を誘拐するといった脅しを受けた。
誰それは小児性愛者だという手紙を周囲の人々に送りつけられた者もいる。
残忍な動物実験
2つのエコウォリアーズ集団、動物の権利義勇軍(ARM)と正義省(JD)は
動物虐待者に対し暴力に訴えることを推奨する。
おそらく同一のエコロジストがALFやARM、あるいはJDのメンバーとして活動し、
実行した行動に応じてどこから犯行声明を出すか選んでいるのだろう。
生命の危険を恐れて、2000人近くの企業トップがイギリス政府に対し、
商業登記簿からの自宅住所の抹消を願い出て許可された。
しかし「負傷した女の子の惨事によって彼らの大義は傷つき、
過激主義者は以後、人身を標的にすることを控えるようになった」と、
動物実験のロビー組織である研究擁護協会(RDS)の専務理事で、
潜在的な標的となっているマーク・マットフィールド氏は穏やかに言う。
「彼らの行為はむしろ脅しの部類だ。彼らが人を殺したことはない」。
この闘争による死者は、ハンガーストライキで死んだエコロジストのバリー・ホーンの他は、
2人の狩猟妨害協会メンバーと、1990年代に生体家畜の輸出への
反対デモの際に車にはねられた女性だけである。
30年にわたる闘争で、動物解放運動はめざましい勝利を収めてきた。
イギリスで毛皮のコートを見つけることはほとんど不可能となった。
ここ数年でいくつかの実験用の犬や猫の飼育会社が倒産に追い込まれた。
2004年1月、ケンブリッジ大学は霊長類への残忍な実験(3)にかかわる
神経学研究所の計画を断念せざるを得なくなった。
バリー・ホーンの友人で、爆発物の所持で4年間の刑に服したメル・ブロートンは、
計画に協力する企業に対するインターネットを通じた圧力キャンペーンを組織した。
3年間で、この計画は単なる研究所の建設から要塞の建設へと変わり、
必要な費用は2400万ポンド(約48億円)から3200万ポンド(約64億円)へと跳ね上がった。
ケンブリッジ大学の理事会の手に負える金額ではなく、計画は放棄された。
研究活動の発展に気をもむブレア首相には打撃だった。
マットフィールド氏が言うには「患者にとって暗黒の日」であった。
エコロジストであるブロートンは、オックスフォードでも
同様の計画を失敗に追い込もうとしている。
「彼らは年1回のデモになら慣れてしまう。
しかし、株主や出入り業者への恒常的な圧力となれば別だ」と彼は説明する。
この3月に動物擁護団体から接触を受けた土木建設企業トラヴィス・パーキンズ・グループは、
その後すぐにオックスフォードの計画から手を引いた。
しかし環境ゲリラの最大の敵は、有刺鉄線が張り巡らされた城砦で、
彼らが4年来攻撃を集中させているHLS社だ。
彼らが強制収容所にもたとえるヨーロッパ最大の生体解剖施設は、今なお活動を続けている。
「私は自分がしていることに信念を持っている」と20年来のALFの宿敵、
ブライアン・キャス会長は我々に語った。
「動物実験の恩恵は患者にとって否定すべくもない」と主張する。
このケンブリッジシャー州のセンターでは、世界の産業のために
毎年7万匹の動物が実験台に使われている。
「85%が魚と齧歯類だ。犬や猿は全体の1%にすぎない」とHLSの幹部は詳述する。
それでも、700匹の動物がひどい扱いを受け、犠牲となっている計算だ。
1996年、ジャーナリストのゾエ・ブロートンはHLSの助手の仕事を手に入れた。
彼女の白衣の下には、小型カメラが隠されていた。1997年3月、
チャンネル4は6カ月に及ぶ調査結果に基づき、
「これでは犬の一生だ」と題したドキュメンタリーを放送した。
視聴者は、実験助手たちが同僚の無関心な視線の下で、
採血のためにビーグル犬を叩くのを目撃することになる。
選挙運動まっただ中の労働党は年金基金によるHLSへの出資を引き揚げ、
HLSの顧客企業は契約を破棄した。2人の従業員が解雇され、告訴された。
イギリス政府は同社への動物実験の許可を6カ月にわたって停止した。
経営陣は解任され、試験機関コヴァンスを率いていたキャス氏が会長に指名された。
HLSは我々の取材を受け入れた。我々が訪問したとき、
犬はきちんとした扱いを受けているようにみえ、撫でてもらおうとして走り寄ってきた。
しかし、そのうち1匹は近づくと怯えた。檻は清潔で、
互いにコミュニケーションを持てるように、2つずつ並べられていた。
ビーグル犬は、1日30分の散歩の時間を与えられている。
ただし場所は廊下である。
実験助手は配慮を見せているが、それは非常に相対的なものでしかない。
彼らは毎日、薬物を餌に混合したり、吸引用のマスクに仕込んだりしているのだから。
一部の例外を除き、ここの動物は死後剖検のために安楽死させられる。
これらの犬は、生涯にわたって野原を走り回ることはない。
「もちろん、犬たちは頼んで連れて来られたわけではない」と、
1997年のスキャンダルの後ここにやって来た研究者は言う。
「しかし、我々は動物たちを最大限に良く扱っている。
いずれにせよ、ストレスがあれば、試験の結果がゆがめられてしまう。
ここでは誰も犬をモルモットのように使おうなどと思わない。
しかし他に選択肢がないのだ」と彼は断言する。
実力行使の標的
「我々は犬の代わりにミニ豚の利用を進めている。
しかし1960年代から研究用に使ってきたビーグル犬についての方が、
多くのデータを保有している」ともう一人の研究者が説明する。
「今のところ、豚の利用を進めることは広報的見地からは好ましいが、
科学的見地からは好ましくない」とある幹部が付け加える。
キャス会長は、槍玉に挙げられている苦痛は相対的なものにすぎないと言う。
「毎年この国で300万の動物が実験用に殺されているが、
食用に殺されている動物は7億5000万にのぼる。
こうしたことはすべて文化的なものが密接にかかわっている。
朝鮮半島では犬を食べるし、イギリスでは孤児の福祉よりも年老いた競走馬
の福祉の方に多くの寄付が集まっている。
それに、実験の条件はここの方がフランスよりずっと良い」。
化粧品産業の影響力が強いフランスとは異なり、イギリスでは政府が
1997年以来、化粧品開発のための動物実験を禁止している。
しかし、HLSで特に残忍な実験が続いていたことが明るみに出た。
例えばフロンガスが禁止されてから15年後の2003年に、
このガスを使った犬の実験が行われていた(4)。
また複数の情報から、日本企業の依頼による骨のための医薬品の試験として、
37匹の犬が脚を折られたことも確認されている。
HLSは、医薬品や工業製品を市場に出す前に、
人体と環境に好ましくない影響を予防するために、
2種類の哺乳類(大抵はねずみと犬)で試験することが、
法律によって義務づけられていると主張する。
現実はより複雑である。
イギリス内務省の情報筋は、サリドマイドの惨事(5)を受けて
1968年に生まれた薬事法を引き合いに出した。
「規定では、信頼できるデータが他の方法で収集できるならば、
動物への試験を強制していない。
だが動物への試験が、人間にとって効果的で安全な製品を
発売するためには必要な段階だという強力な推定が存在する」。
それは強力な推定、もっともらしさにすぎず、科学的な確証ではない。
生体解剖反対論者は、人間に副作用が出ても動物には全くない薬剤もあれば、
その逆パターンの薬剤もあるという例を示してみせる(6)。
ロバート・コンブス氏は、医学的動物実験代替基金(FRAME)の理事として、
中期的に動物実験を廃止していくために代替案を研究するグループを率いている。
その資金は動物擁護団体だけでなく製薬会社からも受け取っているため、
FRAMEはALFから「正当な標的」とみなされている。
コンブス教授によると、動物実験が必要という考えは、
「科学的保守主義」によるところが大きい。
「基礎研究では、代替案には関心が向けられない。
情報技術を使ったシミューレーションには大きな可能性があるのに、開発は進んでいないのだ」。
動物実験の必要というのは、主に経済的なものだ。
「日本やアメリカでは動物実験が義務となっている」と彼は説明する。
内務省の情報筋の発言も、「企業は商品を複数の経済圏で販売しようとし、
それに応じた試験を実施する」と、これを裏づける。
コンブス教授は「動物に対する試験が簡単に実施できるのに対し、
資金の集まらない代替案の優先順位は低い」と付け加える。
製薬産業は、生体解剖の「悲しき必要性」を謳うが、
代替案に投資することには非常に消極的だ。
HLSはFRAMEに名目的な金額を出資して、このことを巧みにメディアに売り込んでいる。
HLSに試験を委託する顧客企業は、収益の論理で動く。
人間の健康や環境に引き起こされる予想外の事態に対しては、
法律を守ることで予防線を張りつつ、最も低いコストで
世界市場に製品を投入するということだ。
生体解剖に反対する動物擁護ゲリラにとって、HLSは打倒すべき象徴となった。
団体組織「ハンティンドンの動物虐待ストップ(SHAC)」は、
ウェブサイトでHLSと協力関係にある企業名を公表し、メールやファックスを送ったり、
電話をかけたり、切り刻まれた犬の写真を掲げて
オフィスの前で定期的にピケを張ったり、といった行動を呼びかける(7)。
その次の段階は、HLSの幹部の自宅前での夜半のデモや、
時には財産や人身への暴力行為である。というのも、
職員の住所もネット上に流れているからだ。
SHACの責任者グレッグ・エイヴリー氏が暴力行為によって
何度も有罪判決を受けているのは事実だが、SHACはALFと異なり、
公式には「非合法活動を奨励も助長もしていない」という。
オックスフォード・ストリートで会ったエイヴリー氏は、
請願書に署名を集め、SHACへの寄付金を募っているところだった。
彼が言うには、「ヒルグローヴ(1999年に倒産に追い込まれた実験用の猫の飼育会社
)の閉鎖によって、どのように株主を狙えば目標に到達できるかが明らかになった」。
バークレイズ、HSBC、オラクル、メリルリンチ等々、HLSの株主は嫌がらせを受け、
従業員の安全を懸念して、一社また一社と出資を引き揚げていった。
硬直化した2大政党制の国で
2001年1月、同様の圧力を受けた王立スコットランド銀行も手を引いた。
HLSはアメリカの投資会社、スティーヴンス・グループのおかげで
危ういところで倒産を免れた。2002年、HLSはSHACの追撃を逃れるためにシティを離れ、
株主の匿名が認められるニューヨークのナスダックに上場した。
しかし、今度は監査会社のデロイト&トウシュが狙われ、協力を見合わせざるを得なくなった。
それから少しして、HLSの保険業者マーシュ&マクレランも同じ運命をたどり、
イギリス政府が直接HLSの保険を引き受けなければならなくなった。
日本の顧客企業も、ロンドン、東京、スウェーデン、スイス、
イタリアなどで嫌がらせを受けている。
2003年9月25日の夜、カリフォルニアで「革命細胞」なるグループから
犯行声明が出された爆破テロによって、HLSの顧客である
日本企業の事務所が大きな被害にあった。
イギリスのセンズベリー科学大臣は製薬産業をなだめるために日本に飛び立った。
シティは、研究部門を脅かす「投資テロ」だと言って、
SHACに都合の悪い情報を手に入れるために報奨金の提供を計画している。
フィナンシャル・タイムズ紙は株式市場を応援して、「カール・マルクス、
ドイツ赤軍派、赤い旅団が失敗した企てを、一握りの活動家がうまくやってのけた」と書いた。
キャス会長によると、HLSは2003年に約10万ポンド(約2000万円)を支払って、
デモ隊が会社の事務所や職員の自宅に近づくことを禁止する裁判所命令を勝ち取った。
顧客企業も同じようにした。
SHACはこの障害を回避して、裁判所への差し止め請求に必要な
2万ポンド(約400万円)を支払う力のない「二次的な標的」に狙いを定めるようになり、
暴力行動の数は倍に増えた(2004年の初めの3カ月で46件)。
4カ月のうちに、22の企業がすでにHLSとの関係を断ち切った。
いくつかは、幹部や顧客を送迎するタクシー会社のように、HLSとは僅かな関係しかない。
マットフィールド氏は、標的にされた400人の所在を調べ、犠牲者の会を作ろうとしている。
「何人かは神経衰弱に苦しんでいる。
家族は怯えきっている」。ハンティンドン選出の保守党議員、ジョナサン・ジャノグリー氏は、
フーリガンの取り締まりをモデルとして、取り締まりを強化することを求めている。
「このテロリストたちは、民主主義の原則を攻撃しているのだ」と断言する。
動物解放運動にとって、自分たちの実践していることは、
代議制民主主義の惰性を前にした「参加型民主主義」と呼びうるものである。
「1997年の選挙に勝つ前、ニュー・レイバー(新生労働党)
は動物擁護論者に対して数多くの公約をした。
彼らはそれを破ったのだ」と、ケンブリッジ大学の研究所計画を
挫折に追い込んだメル・ブロートンは述懐する。
「バリー・ホーンはブレアに自身の綱領を思い起こさせるために、
ハンガーストライキをして死んだ。
政治家は、行動を起こすには少数の実力者に密着しすぎている。
民衆の直接行動こそが、彼らに政策の実施を迫ることになるのだ」
産業グループによる圧力を前にして、動物擁護論者の行動は、
政策決定を左右するようになる。マットフィールド氏も
「彼らの合法的なデモ行動によって、議論が活発になり、
この国が1986年に世界で最も厳しい動物実験に関する法律を制定することになった」
と認めている。
同様の流れの中で、イギリス政府はエコウォリアーズに対する取り締まりを強化する一方、
動物実験の代替案に関する大規模な国立研究センターを創設することを約束している。
新自由主義化したブレアの労働党と、サッチャーの流れを汲む
ウルトラ右派という限られた選択肢しかない硬直化した2大政党制の国で、
世論の一部は自分たちの代表がいないことに苦慮している。
こうした意味において、動物の擁護を唱えるエコロジストの
(ただし暴力によらない)行動は、イギリスの議会民主主義を動かしていく可能性、
そして、崇高な大義を擁護する可能性を示している。
(1) クリス・マルケルの短編映画『ラ・ジュテ』に着想を得た
テリー・ギリアムの1995年の作品。主演はブルース・ウィリス、ブラッド・ピット。
(2) 400万人のイギリス人がベジタリアン。そのうち肉、卵、牛乳、
バター、チーズ、皮、羊毛といった動物から取れる製品を一切消費しない
厳格なベジタリアンが約25万人。
(3) 猿の頭蓋を意識のあるまま切り取り、電極を脳に差し込み、
ニューロンの働きを研究する。1日6時間、週5日間行う。
この実験の支持者は人間と猿の類似性を引き合いに出し、
反対者はその類似性こそが、倫理的に容認しがたい苦痛をもたらすのだと説明する。
(4) The Observer, 20 April 2003.
(5) この薬は1957年の医療上の惨事の原因となった。
妊婦に処方されたサリドマイドによって、
数千の腕のない子供が生まれた。
このことは生体解剖反対論者にとって、動物実験では何も明らかにできなかった
ことの証明である。反対にその支持者は、動物実験の件数が不十分だと残念がる。
(6) 生体解剖の代替案については、http://www.experimentation-animale.org
を参照。ヒト細胞の培養や情報技術を使ったシミュレーションなど。
(7) http://www.shac.net/
参考
動物解放戦線(ALF)の公式サイト、英語(http://www.animalliberation.net)
動物の条件に関するネットワーク=搾取に反対する活動家グループ(RAGE)のサイト、
仏語(http://www.reseaulibre.net/rage/)
動物擁護運動のためのサイト、仏語(http://animauzine.net)
人間と動物の権利に関する活動家とシンパのためのサイト、仏語(http://www.stopvivisection.info)
動物にかかわる産業や娯楽に関する情報サイト、仏語(http://www.veganimal.info)
ネット上の団体から発信された情報のサイト、主に英語(http://an-group.org)
~転載終了~

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